LOGIN深夜遅くに帰宅したセオドアは、アルダンから、ローティシアが昼のガーデンパーティの後、夕食も取らずにずっと眠っていると聞いた。
昼に会ったときは楽し気にしていたが、やはり気が張っていたのだろう。
疲れたに違いない。
寝室に入ると、ティーテーブルのランプだけが部屋を灯していた。
今日は手紙を書く余裕も無かったようだ。着替えて寝台に近寄ると、ローティシアが丸くなって自分を抱えるようにして眠っている。
隣に入ろうとして、頬に張り付いた髪をそっとかき上げたとき、そこに涙のあとが見えて、体が、かっと熱くなった。
――誰だ
泣き疲れて寝たのだろう。頬に触れても目を覚ます気配がない。随分と泣いたようだ、目も腫れている。グツグツと腹が煮えるようだった。
――誰だ、彼女を泣かせたのは
昼間、庭にいた招待客を思い浮かべる。その中でふと浮かんだのはクロードの妻だった。
何か、心無い言葉を投げかけられたのだろうか。皆の前で辱められるような。もし、そんなことが起こってい
セオドアは、テラスの窓越しに、カーテンの向こうで夫人方と談笑しているローティシアに目を配っていた。「なんだ、なんだ、テオ。一時も目を離せないとは、随分な溺愛ぶりだな」葉巻を餌にセオドアをテラスへと誘ったクロードが、茶化すようにそう言って笑う。「彼女は繊細だから、社交界の手練れたご夫人方の会話に心を痛めがちだ。お前のところの夫人のような辛辣な物言いには、特にな」その棘のある言い方に、クロードは眉間に皺を寄せる。「アビゲイルは、色々と問題を抱えているが、それほど極悪ではないぞ」「どうだか」ようやく体調が戻ったばかりのローティシアが、誰かからの不用意な発言で傷つかないか気がかりでしょうがない。「いやいや、お前は昔から色気のある奴だと思ってはいたが、さっきのダンスには、周囲があてられっぱなしだったな」葉巻をふかしながら、ビスゴールが傍らで笑う。「いやまさしく、ヤノシュ卿。いかつい将軍も恋に落ちるとただの男になりますな」クロードが面白がって言う。「恋に落ちたなどと、稚拙な言い方をしないでくれないか、クロード」ネタにされていることを不愉快に感じて、抑揚のない声でそう返すと、さらにクロードが詰め寄る。「いや、まさしく落ちるという表現が、お前にはぴったりだったよ。一目惚れした上に、あっという間にさらって行ってしまったんだからな」一目惚れ……クロードのその言葉に、雷に打たれたような衝撃があった。「おいおいおい。なんだ、セオドア……おまえ、その顔」ビスゴールに正面から顔を覗き込まれて、思わず顔をそむける。心臓が激しく鼓動を打って、頭に血が上る。革のグローブで包まれた拳で自分の口を押えた。そうでもしないと口から心臓が飛び出そうだ。「ごほっ……いや、ちょっと待て、テオ。クックックッ……あははは」クロードが手に持っていた葉巻を落としそうになりながら目を見開いて、笑いながらこっちを見ている。「ぶはははは、い、いや、今
皇室が主催する夜会は、夏の間に三つある。ひとつ目は夏の始まりに、その年に社交界デビューした若い貴族を中心に招かれる。ふたつ目は帝都で華やかな催しのある時期に爵位の上下に関係なく、皇室から招待状の届いた者、または希望して許された貴族が参加できるものとして。そして、みっつ目は夏の最終週に行われる、大舞踏会だ。大舞踏会に招待されるのは、要職についている貴族や皇族に所縁のある貴族などで、皇帝が自身の政治的基盤を作る要人と認めた者が参加できる、政治色の濃い場でもある。ローティシアは、結婚するときに参加した生まれて初めての夜会が、この催しだった為、後で、この夜会の意味の重さを知って、震えたのだった。そして、今回もまた、帝都で参加する最初で最後の夜会がこの場だとは、なかなかな巡り合わせだと思う。フェアファックス家の深い茶色と赤という家紋の色に合わせた衣装を纏い、セオドアの手を取って馬車に乗り込んだ。セオドアは、こんな日でもギリギリまで皇宮で仕事があり、忙しかったようだ。「帝都を立つ前に、文句のないように仕事を処理しておく必要がある。向こうへ戻ってから呼び戻されるのはごめんだからな」詳しくは教えてもらえないが、ドラグナの一件で、軍に関連した仕事が随分とたくさん増えたらしい。「来週には、帝都を立って向こうへ戻ることができると思う。こちらで、やり残したことはないかな、ロッティ」「城の皆さんにまだお土産を買っていないので、数日内にメイアと出かけて見てこようと思ってます」そう言うと、大きな物や数が多くなった物は直接店から辺境へ届けてもらうといい、というアドバイスを貰った。馬車は、帝都の石畳の幹線道路を、カツ、カツ、カツ……と乾いた音を立てて進んでいく。窓を流れる街灯の明かりが、都会を感じさせる。辺境でこんな時間に馬車に乗っていたら周囲から狼の遠吠えが聞えるだろう。「向こうは、もう、上着を羽織らないと外に出られないでしょうね」思わずそう呟くと、セオドアが優しく答えてくれる。「寒さの厳しい時期が辛ければ、
ガーデンパーティからはすでに一ヶ月が過ぎていた。この数日になって、ようやくヴァレリアに礼を言いに行くことができ、多少なりとも以前と同じように過ごすことができている。気持ちが塞ぎがちな自分を気にして、セオドアが早く帰って来てくれることが、何よりの薬になった。彼に甘えていることを、申し訳なく思う反面、晩餐の席で彼と話しながら過ごせることが、不安で揺れる心を軽くしてくれる。「ロッティ、嫌でなかったら明日の夜、観劇に出かけないか」晩餐を取りながらセオドアが誘う。演劇なんて、昔、教会で見た古びた人形を使った人形劇と豊穣祭で見た旅芸人の芝居くらいだ。劇場に足を運ぶことすら初めてで、期待が膨らむ。そして、なんと、帝都の劇場には、フェアファックス家の専用ボックスなる席があり、劇の始まる前に女優が席まで挨拶に来るほどだった。「芸術に投資をするのも、ある意味我々の義務だから」と、さらりと言われて、改めてセオドアの持つ義務と権威というものを実感する。演目は、国の創生神話である『神<ザグリオン>とそれに愛を与えた女神<アエラ>の物語』だった。{自分を持て余し、その怒りをどこにぶつけて良いかわからないザグリオン。なぜ自分は生まれ、この地を制しているのかわからず、混乱し、世界を焼き尽くそうとしてしまう。そんなザグリオンに、己の生きる意味を説き、愛を教えるため、わが身が燃えるのも顧みず、アエラは彼を抱きしめる。自分を救うために燃え尽きようとしているアエラに気づき、ザグリオンは我に返る。しかし、その時すでに、アエラはその命を失おうとしていた。彼女を救おうと苦心するザグリオン。しかし、彼の力は炎となってアエラを燃やすばかり。その時、ザグリオンは初めて愛する心と失う悲しみを知り、涙を流す。その滂沱の涙は大地を潤し、この地に新たな命を作り出すことに繋がっていく。}ローティシアは、慣れない観劇で最初こそ緊張していたが、あっという間に劇の世界に入り込んでしまった。そして、アエラの死の場面では涙が止まらなくなってしまった。ハンカチを押し当て、鼻をすすりあげていると、セオドアの手がそっともう片方の手を握ってくれる。縋るようにその手を握り返した。そして、劇が終わった時には立ち上がって、役者たちに盛大な拍手を送っていた。「楽しかったか?」劇場を出て馬車に向かいながら
別邸の自室に閉じこもり、ぼんやりと窓から庭を眺める日々。辺境の城が懐かしくてたまらない。季節の営みがその理に逆らわず続く、あの毎日に戻りたい。その愛しい日々とて、もしかしたら自分の手からいつかこぼれていくかもしれないのだ。だとしたら、可能な限りその中に居たいと思った。自分は、ただ、あの城でセオドアを送り出し、迎える日々を送っていたいだけ。ただそれだけなのに。それがとても贅沢な望みだと思えた。セオドアは、皇族に次ぐ高位の貴族で、多くの責任を負っている。その伴侶としてやるべきことが多くある。そして、そのもっとも大きな義務は、フェアファックスの系譜を繋いでいくこと。セオドアと出会う前。自分を慰めるように夢想に浸っていた。あの頃に想像していた恋物語の中の、王子と姫や、騎士と王女は、めでたしめでたしの後、ずっと幸せになったのだろうか。両親は......父は、すべての責任を投げ捨てて母と家を出た。その後、本当に幸せな結末だっただろうか。兄である父からすべてを押し付けられたクロードは?不名誉を被り義父に苛まれたアビゲイルはどうだった?良くない思いに絡められ、ぐるぐるとその考えに縛られて、どう息をすればいいかもわからなくなってしまった。私たちが......セオドアと自分が互いに愛を伝えあって結ばれた夫婦だっ
深夜遅くに帰宅したセオドアは、アルダンから、ローティシアが昼のガーデンパーティの後、夕食も取らずにずっと眠っていると聞いた。昼に会ったときは楽し気にしていたが、やはり気が張っていたのだろう。疲れたに違いない。寝室に入ると、ティーテーブルのランプだけが部屋を灯していた。今日は手紙を書く余裕も無かったようだ。着替えて寝台に近寄ると、ローティシアが丸くなって自分を抱えるようにして眠っている。隣に入ろうとして、頬に張り付いた髪をそっとかき上げたとき、そこに涙のあとが見えて、体が、かっと熱くなった。――誰だ泣き疲れて寝たのだろう。頬に触れても目を覚ます気配がない。随分と泣いたようだ、目も腫れている。グツグツと腹が煮えるようだった。――誰だ、彼女を泣かせたのは昼間、庭にいた招待客を思い浮かべる。その中でふと浮かんだのはクロードの妻だった。何か、心無い言葉を投げかけられたのだろうか。皆の前で辱められるような。もし、そんなことが起こっていたとしたら……怒りで体がどうかなりそうだった。皇宮に戻らず、あのままいれば良かった。あの後、何があったのか。こんなに泣きはらすほどつらい思いをしたとは。癒すように涙のすじに親指でそっと触れてから、静かに部屋を出てアルダンに伝言を書いたメモを手渡し、再びローティシアの隣へと戻った。そして、丸くなって眠る体を守るようにそっと抱きしめた。◇◇◇大きくて暖かい腕が自分を包んでいた。心地よすぎてさらにその大きな体にすり寄る。明るい時間にこんな風に一緒に居られるなんて、幸せだ……大きく匂いを吸い込んだ後で、はたと気づく。なぜ、こんなに外が明るい時間にセオドアが?胸元から顔を上げると、じっと黒い瞳が見つめている。「テオ様?」なんだか、瞼が腫れぼったくて目が開けづらい。昨夜、泣きながら寝たせいだ。「おはよう、ロッティ」低い掠れた声が指とともに頬を撫でる。「今日は、まだ、お仕事に行かれなくても大丈夫
「まぁ、ラン。どうしたの?今日はご婦人だけの会なのよ。無粋だわ」ヴァレリアが、笑いながら意地悪なことを言う。ランバートは、走り寄る娘を抱き上げて美しい笑みを周囲の婦人方に送りながら挨拶をする。「美しいご婦人方が一堂に会する、こんな花の宴があるというのに、覗きに来ない手はありませんよ。ごきげんよう皆さま」周囲に笑顔で挨拶をしながら、妻の傍へと歩み寄ってそっと額に口づけを落とした。ローティシアは、その後ろから一緒にアーチをくぐって入って来るセオドアの姿に嬉しくなった。「ごきげんよう皆さま。無粋だとは思いましたが、我が家の庭で開かれる美しい宴を一目見たくなり立ち寄りました。どうか、我々を気にせずご歓談をお続けください」笑顔で皆にそう声をかけると、天幕の方へとゆっくりと歩いて来る。「テオ様、驚きました。お忙しいのに様子を見に来て下さったのですか?」「訓練場でランバートと出会って、彼が気にしていたから」周囲のご婦人方が、自分たちをチラチラと気にしながら、話題にしているようだ。この様子では、この後も皆退屈しなくて済むだろう。「どうだ? 順調かな。何か困ったことはないか?」「とてもうまくいっていますわ。ヴァルにもアルダンにも本当に感謝です」「そうか。もし何か問題があれば、すぐにアルダンに対応させるといい」遠巻きにざわめいていた婦人方が、セオドアに次々と挨拶に訪れ、天幕の中が一気に騒がしくなった。そして、しばらく婦人方に挨拶をして場を賑わせた後、「これ以上いるとせっかくの夏の穏やかな昼下がりを台無しにしてしまいそうだから」と、2人は再び皇宮へと戻って行った。「眼福でしたわ」ローエン伯爵夫人のセラフィーナが、去っていく馬の後姿を見ながらローティシアに話しかける。そうだろう。夫のいる彼女から見ても、セオドアは格好良いに違いない。なんだか、自分が褒められた気分で顔が緩む。しかし、こういう時はどう答えるべきか。『いえいえ、そんな』なのか『ありがとうございます』なのか。よくわからないので







